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三雲学区の城跡紹介

このページでは湖南市の三雲学区に遺された複数の城跡や遺跡を紹介します。

丸岡城・東丸岡城

丸岡城跡に残る細く長く続く凹地、横堀の遺構と思われる
両城跡は、柑子袋集落南側の丘陵に築かれている。墓地の駐車場の右手が丸岡城、左手が東丸岡城である。丸岡城は、墓地によって南側が削減しているが、墓地から三重の横堀が残り、土橋も確認できる。

丸岡城の縄張りは、甲賀の城郭に多く見られる方形の縄張りだが、主郭は分厚い土塁に囲まれ、東側の桝形虎口から3m程の深さの堀底道を経て主郭に至る縄張りは、甲賀の他の城では例を見ない複雑な縄張りとなっていて、甲賀の城の中でも見応えのある一城である。築城年代は定かではないが、甲賀五十三家のひとつである青木藤兵衛が築いた。それ以外の詳細については不明。

東丸岡城は、山道を挟んだ僅か50m程の場所に位置し、出城として築かれたものと考えられる。50m四方の小振りな城だが、高い土塁で囲まれた堅牢な構造になっている。北側と西側に確認できる平虎口と土橋は後年の改修と思われる。
1585年頃に丸岡城とともに取り壊された。

丸岡城

所 在
滋賀県湖南市柑子袋
築城期
不明
築城者
青木藤兵衛
遺 構
曲輪・土塁・空堀
形 式
丘城

東丸岡城

所 在
滋賀県湖南市柑子袋
築城期
不明
築城者
青木藤兵衛
遺 構
郭・土塁・堀
形 式
丘城

平松城

遺構は竹やぶで覆われている
宮嶋氏代々の居城。室町時代、宮嶋掃部介による築城と考えられるが、遺構らしきものはない。宮嶋氏は甲賀五十三家のひとつに数えられる一族で、室町時代中期に平松の地に移った。宮嶋氏は大伴姓で、九代大伴善平は平松太郎と号し甲賀太郎と称した。大原氏、上野氏など三河から甲賀に移住した富永一党は、この大伴姓宮嶋氏を頼り甲賀へ移った。頼男、善頼、善平、武清と代々続き、寛正~応仁年間(1460~1469)中務尉、兵庫允は大慈院領の下司となっている。伊賀上野城主 藤堂高虎も宮嶋氏の出身である。

西照寺の西側にある薮内が城域とされ「里屋敷」の字名が残っている。
所 在
滋賀県湖南市平松
築城期
室町時代
築城者
宮嶋掃部介
遺 構
形 式
平城

アクセス

JR草津線 甲西駅から徒歩約20分(約1.3km)

岡ノ山遺跡

遺跡は甲西駅から「うつくし松」に向かう道沿いにある
美松山の北東麓にあったとされる丘陵。『嶋記録』によると田那部式部丞の居城とされるが、詳しくは不明。田那部式部丞は今井氏の被官で、長沢城(米原市長沢)を本拠とした人物。平松地区の松尾神社・南照寺の背後の山中が城域と考えられる。松尾神社の周辺には土塁と思われる土盛りが確認できるが、城郭遺構であるかは定かではない。
『嶋記録』に、平松城 田那部式部丞嶋久右衛門尉進退の事、「杉立云、日根備中知行南郡也、下一道ノキハヒラ平ト云所ニ居城アリ」と記されている。

康正~応仁年間(1455~1469)宮島中務丞宗秀は養父平松兵太郎藤原頼秀の家督を継いで松尾神社主職となり、平松郷の下司職に補されて平松城に住んだという。その子掃部介宇久、兵庫允吉秀は甲賀武士五十三士のひとりとして長亨の乱に佐々木六角高頼に属して戦功を挙げた。以来、宮島氏は松尾神社の祠官を兼任して当城に居住した。元亀元年(1570)宮島中務丞資包は織田信長に降伏して本領を安堵したが、天正13年(1585)豊臣秀吉に没収された。

当城は平松岡ノ山にあり、集落の南方松尾神社と南照寺の東側に隣接しており山麓部で竹林と山林とが混生している。

郭の東側は天井川となり、郭との間に延長100mにも及ぶ直線状の帯郭が設けられて、その北端部を高く作出して櫓台の機能を充分に果たしうる立地となっている。したがってここからの眺望は良好である。

山麓部の豊富な湧水を利用し南方山側に対しては二重の土畳と、二重の水濠を構築し西方社寺側との間に巾広の水濠を掘り、北側用水池(先の池)に引き入れて切岸とで周囲を防御する構えとなっている。

主郭は35m×20mの長方形とし、同一レベルの25m×15mの郭を継いでいて、その東北部は1m前後の段差をもつ3個の小郭を構えた縄張りとなっている。
主郭とそれに続く郭は、元はかって長期にわたり水田化されていたため、山手の二重の土畳の内側は削り取られて細く低く痩せている。南側山頂部は広いテラス状になっているが防御設備はなされていない。その南側は急斜面に落ちている。
所 在
滋賀県湖南市平松
築城期
室町時代
築城者
田那部式部丞嶋久右衛門尉
遺 構
堀・土塁・曲郭(現状:寺院・神社・森林・竹林)
形 式
平城

針城

竹藪は荒れているが、土塁ははっきりと確認できる
針氏代々の居城。針和泉守が築いた城であること以外、詳細不詳。

甲賀五十三家のひとつに数えられ、針和泉守は長亨・延徳の乱(鈎の陣)に六角高寄頼方として従軍した。

県道4号線(旧国道1号線)針の信号から山手に向かい、旧東海道を横切り南進タキイ研究農場の手前の(飯道神社を越えて)道を左折。左手の社宅の先、太留麻大明神(稲荷)の手前左手の竹藪が城跡。竹林の中に高さ3m~4mの土塁が残るが、どこまでが城域か不明。竹薮は荒れているが、土塁ははっきり確認することができる。

針氏城遺跡が所在する丘陵は、北側が鈴鹿山地から延びる水口丘陵の西側にあたり、南側は湖南アルプスと称される山々が連なる山塊地。山地は花崗岩でできているため風化が著しく、特に南側の山地から流れる小河川は多量の土砂を丘陵と低地に供給し、大沙川・由良谷川・家棟川などの天井川を形成している。
所 在
滋賀県湖南市針
築城期
不詳
築城者
針和泉守
遺 構
土塁(現状:竹林)
形 式
平城

夏見城

夏見城遺跡では貴重な「毛抜き」が出土した
夏見城は、文献上ではほとんど登場しない。『甲賀郡志』によれば、夏見氏は、甲賀五十三家のひとつで夏見氏代々の居館。長享年間(1487~1489)に六角氏の家臣であった夏見大学が、戦功により代々夏見の地を領したのが始まりとある。長享年間(1487~1489)夏見兵内による築城。夏見兵内は長享延徳の乱(釣の陣)に六角高頼方として従軍、その功績により同地の領主となるも、天正13年(1586)には豊臣秀吉に領地を召し上げられ帰農したとされており、詳細なことについては分かっていない。

湖南市立三雲小学校東側の旧東海道を見下ろす丘上に位置し、甲賀には珍しい複郭式の構造で、城域とされる竹林の中に土塁と堀跡が残存している。
所 在
滋賀県湖南市夏見
築城期
室町時代
築城者
夏見大学
遺 構
土塁・堀(現状:竹林)
形 式
平城

出土した毛抜き(正面)

出土した毛抜き(鶴面)

出土した毛抜き(沢潟面)

アクセス

  • JR草津線 甲西駅から徒歩約30分(約2.4km)

三雲城

巨大な石垣を持つ枡形虎口と威容が見える巨石「八丈岩」が特徴
長享2年(1488)に三雲典膳が佐々木六角高頼の命によって築いた典型的な山城。近江の戦国大名 佐々木六角の宿老として名を馳せた三雲氏の居城。巨大な石垣を持つ枡形虎口と山麓からも威容が見える巨石「八丈岩」が特徴。六角氏が近隣勢力等から居城の観音寺城を攻められた際に逃亡する城として度々史料に登場する。元亀元年(1570)織田信長の家臣、佐久間信盛との戦いで落城した。天正13年(1585)羽柴秀吉の家臣、中村一氏が水口岡山城を築城する際、三雲城の資材や石垣などを持ち運んだと伝わる。

作家 司馬遼太郎が昭和37年(1962)に著した小説「風神の門」に出てくる忍者 猿飛佐助は、城主 三雲成持の甥 三雲佐助賢春と記述されており、佐助が修行したであろう八丈岩は、「落ちそうで落ちない、倒れそうで倒れない」ことから合格祈願のパワースポットとして近年脚光を浴びている。
所 在
滋賀県湖南市吉永251
築城期
1488年
築城者
三雲典膳・成持
遺 構
石垣・虎口・土塁・堅堀・井戸等
形 式

石切り矢穴列痕

城郭の石垣

刻まれた家紋

三雲城ジオラマ

升形虎口石垣

城跡からの眺望

アクセス

  • JR草津線 三雲駅から徒歩約45分(約3.3km)
  • JR草津線 三雲駅から車で約10分

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みくも学区まちづくり協議会
〒520-3233
滋賀県湖南市柑子袋860-1
柑子袋まちづくりセンター内
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